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東京地方裁判所 昭和35年(ワ)748号 判決 1964年4月15日

原告 秋田誠光

被告 国 〔人名いずれも仮名〕

訴訟代理人 宇佐美初男 外一名

主文

一、被告は、原告に対し、金三五万円およびこれに対する昭和三五年二月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二、原告その余の請求を棄却する。

三、訴訟費用は四分し、その三は原告の、その余は被告の各負担とする。

事実

(当事者の求める裁判)

原告訴訟代理人は、「一、被告は原告に対し、金二〇〇万円およびこれに対する昭和三五年二月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。二、訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決を求めた。

被告指定代理人は、「一、原告の請求を棄却する。二、訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

(原告の主張)

請求原因

一、原告は、昭和八年、京都市北区大山原野町三三番地に外科および産婦人科の秋田病院を開設し、昭和二五年一二月同病院を医療法人に改組、さらに同二七年一一月頃同区中賀茂上野町六番地に外科と呼吸器科を取扱う医療法人上洛病院を創設し以来両病院長を兼務し、医師としての評価も高く、右に応じた地位名声を有する。

二、昭和二九年三月三日および同月一〇日の再度にわたつて、当時京都地方検察庁検事であつた訴外菊長一義は、つぎのとおりの公訴事実により原告を京都地方裁判所に起訴した。

(一)  昭和二八年一一月一八日頃の深夜前記秋田病院階下六畳間に就寝中の同病院見習看護婦河田菊子(当一九歳)に対し、麻酔薬「チクロパン」を注射し同女を昏睡状態に陥らしめた後、これを自室八畳間に拉致し同所においてその抗拒不能に乗じ強いて姦淫し、

(二)  昭和二九年一月中旬頃の午前二時頃、前記秋田病院二階四畳の間に就寝中の同病院見習看護婦岩原富子(当一八歳)(旧姓井野富子)の布団中に秘かに侵入し、同女が熟睡中で抗拒不能なるに乗じ、自己の左手を以て同女の着用せるパンツ上部から同女の陰毛部に手を挿入して陰毛に悪戯をなし、以つて強制猥褻をなし、

(三)  法定の除外事由がないのに、昭和二四年頃から昭和二九年二月二三日に至る間前記秋田病院内において塩酸ジアセチールモルヒネ五二グラム(純度〇・五グラム)を不法に所持し、

(四)  法定の除外事由がないのに、昭和二九年二月二三日、前記秋田病院において刃渡五五・五センチメートルの日本刀一振を所持し、

(五)  昭和二八年一月一三日頃の午前四時頃前記上洛病院応接間において、同病院見習看護婦延藤千代子(満一八歳)(旧姓佐原千代子)が就寝中にして抗拒不能なるを奇貨とし、同人の陰部に手指を挿入して弄び、外陰部大陰唇に治療約一週間を要する粘膜剥離及び糜爛炎症を生ぜしめ、

(六)  同年四月二八日頃の午後一一時二四分頃、同所において前記延藤千代子を姦淫すべく逃げる同人を同室内で追い回し同人が疲労のうえ昏倒し人事不省に陥るや同時頃から翌二九日午前六時頃までの間その抗拒不能に乗じ強いて同人を姦淫し、よつて処女膜破裂等の傷害を負わしめ、

(七)  同年一一月四日頃の午後一〇時頃、前記秋田病院において同病院見習看護婦栗田美子(美恵ともいう。当時満一八歳)が便所に行つた際これを同病院内自室に拉致し、同所において同人の無智なるに乗じ麻酔薬「チクロパン」をその右腕に注射し、同人をして心神喪失状態に陥らしめ強いて同人を姦淫した。

三、昭和三二年九月五日、京都地方裁判所は、(二)の岩原富子に対する強制わいせつおよび(四)の日本刀不法所持の件についてのみ有罪その他については無罪の判決(以下単に刑事第一審という。)を言渡した。このうち無罪部分はいずれも確定し、さらに原告は右強制わいせつの部分について控訴の申立をなしたところ、昭和三四年三月四日大阪高等裁判所において適法な告訴がなかつたものとして右部分は破棄され、公訴棄却の判決(以下単に刑事第二審という。)が言渡されて確定した。

四、ところで右(一)(二)および(五)ないし(七)の事実についての各公訴提起は、いずれも検察官菊長一義の故意または過失にもとずく違法な公権力の行使によるものである。

およそ刑事々件において、無罪判決あるいは訴訟要件の欠缺による形式的裁判(公訴棄却等)が確定した場合には、その公訴提起は公権力の違法な行使であつたというべきで、公訴提起にあたる検察官は、高度の資格を要求される法律専門家の立場から(a)警察官による捜査の結果を検討し、必要であれば(b)不備な証拠を収集し、そのうえで(c)単なる有罪の蓋然性ではなく合理的な経験則にもとずいて有罪の確信をもつに至つた場合にのみ公訴を提起すべきであつて、これらのいずれかの義務をつくさなかつたため右のように有罪判決がえられなかつた場合には、前記違法な公権力の行使について検察官に故意又は過失を認めるべきである。

さらに本件のような薬品を使用した未成年者に対する強姦、強制わいせつの被疑事件を取扱う検察官としては、職務上の義務として薬品の性質、作用、用法を専門的科学的に検討し、告訴の意思については保護者の同意を確かめるべきで、また麻薬でないにもかかわらず誤つて麻薬事件として捜査が始められた本件では、当初の見込捜査による過誤を防ぐため捜査の端緒についても調査し従来の捜査方針を再検討する等被害者の供述の信憑性について特に慎重な配慮が必要であつた。しかるに本件においては菊長検事はこのような義務の遂行を怠つたものである。

五、以下個々の公訴提起における菊長検事の義務の懈怠を述べる。

(一)  河田菊子の場合、本犯行に使用されたというチクロパンは、通常〇・五グラムの粉末を五CCの蒸溜水に溶かした液を一秒間に〇・一ないし〇・二CC程度の速さで徐々に静脈内に注射して使用する麻酔薬である。その麻酔作用は急激で、薬液の注入中に深麻酔の状態に入り短時間で浅麻酔の時期を経ることなく覚醒するものである。そうするとこの作用からいつて河田は注射の直後深麻酔に入つていた筈で、原告が自宅六畳の間に連行したことをかすかでも覚えているという同女の供述は薬学上ありえないことで、検察官が本件について科学的な見地からの検討を怠らず、専門家に照会する等の方法をとつてかかるチクロパンの作用を知つておれば、このような供述を信用することはなく、従つて河田に対する前記公訴事実について有罪の確信を抱くに至らなかつたはずであるのに拘らず、これらの措置をとることなく、また河田の言うように昭和二八年一一月一〇日頃同室者の末広、栗田らがチクロパンの注射をされたかどうか、石田、下田両看護婦が自殺を図つたのは原告に乱暴されたためであつたかどうか、原告が麻薬中毒であつたか否か、秋田病院ではビタミンB1 をストレプトマイシンとして不正使用していたかどうかの諸点についても裏付捜査をしてその供述の信憑性を慎重に検討すべきであつたのに、これらの点の調査をいずれもしていない。

また河田菊子は刑事公判廷での供述でも明かなように証言能力がなく質問者の誘導がなければ証言できない状況であつたから捜査段階の誘導強制を疑わしめるに十分であり、このような供述はたやすく信用できないにもかかわらず、検察官は、その調書作成にあたつて警察官の調書を内容に検討を加えることなくそのまま踏襲しており、その取調べは非常に粗雑である。

以上のとおり菊長検事には、チクロパンの薬学上の作用について注意をはらわず、またその信憑性について裏付捜査をしないまま漫然河田の供述を信用して本件公訴を提起した過失がある。

(二)  岩原富子の場合、前記第二項(二)の事件について、司法警察員作成の供述調書によれば岩原が告訴の意思を表明したことになつているが、同女は告訴の意思表示をしたことはない。この調書は昭和二九年二月二三日原告が逮捕され勤務先の秋田病院が家宅捜索された際下鴨署に同行を求められた同女が午後五時頃から一一時頃まで取調べを受けて作成されたものであり、その供述は同女の真意にもとずくものではない。当時わずか一八歳で警察での取調べの経験を全く持たなかつた同女がこのような状況で不安と恐怖におびえていたことは明らかであつたから、検察官はその取調べにあたつて告訴調書作成の際警察官が親告罪における告訴の意味を説明したか、岩原の告訴は真意にもとずき自発的になされたものかを慎重に吟味すべきであつたし、同女はこの事件の後でも原告方に居住し勤務していたのであるから、その告訴の意思の存在について疑いをもちこれを自ら徹底的に調査し確認すべきであつた。

右のとおり菊長検事は、親告罪の処理にあたつて当然なすべき告訴の意思の有無の確認を怠り、被害者の告訴の欠缺を看過して本件公訴を提起したもので、これは重大な過失というべきである。

それのみでなく検察官としては、岩原富子がその同室者である岩本晴子に本件犯行のことを訴えた旨の供述をしている以上当然その裏付けとして岩本を調べるべきであつたし、また岩本と岩原は一枚の布団に同衾していたというのだからこれが二人の間に原告が入りこんでわいせつ行為ができるほどの大きさの布団であつたかを確かめるべきであつたのにこれをも怠つたものである。さらに本件については原告の弁解も開いていない。これらはいずれも検察官のなすべき捜査上の義務を怠つたもので、同人の過失である。

(三)  延藤千代子の場合、(1) 強制猥褻致傷について、本件については起訴前の昭和二九年三月八日告訴が取り下げられているので親告罪である単純な強制わいせつとしては起訴できなかつたところ、強制わいせつ致傷としての起訴であつたため一応適法の外観を呈しているが、その非親告罪の要件としての傷害である大陰唇粘膜剥離および糜爛炎疵が原告のわいせつ行為によつて生じたことを示す確定的な証拠は何もなく、この点について検察官が十分捜査した形跡も認められない。また原告から暴行を受けた衝撃で吹雪の中を自宅まで帰つたとの延藤の供述について裏付捜査がなされていない。

このように非親告罪として犯罪が成立するに必要な致傷の点について、経験則上有罪判決を期待しうる程度の証拠がないまま起訴した点において検察官に過失がある。

(2) 強姦致傷について、本件は、延藤千代子の供述によれば、犯行現場は上洛病院の応接間で同女は原告に追いかけられ逃げようとして室の南側の窓ガラスを割り、さらに疲労のため昏倒して人事不省になり、その間に姦淫されたというのであるから、当時ガラスの割れた事実があつたか否か、その部屋がそれほどの広さがあるのか等の客観的な点について裏付捜査を行いさえすれば、容易にその室は走り廻つて疲労のために失神するほどの広さではなく、またガラスの破損もなかつたことが判明し、その供述の信用できないことが明瞭になつたはずである。にもかかわらず検察官は、部屋の具体的な大きさ状況についてなんら記載なく唯単に延藤の供述に一致するという黒川巡査の判断のみ記載した捜査報告書で足りるとしその判断の基礎となつた事実についての捜査を怠り、漫然と延藤の供述が信用できると速断して本件公訴を提起したものである。

なお前記のとおり延藤は起訴前に告訴を取り下げているが、致傷についての検察官の捜査は不完全である。起訴は処女膜破裂をもつて致傷としているが、芝野医師の診断書に処女膜破裂とあるのみでこれはその時期についての証拠とならない。従つて同女が昭和二八年四月二八日当時まで処女であつたか否かは単に延藤の供述だけしかないが、同女は虚言癖があつたうえ素行も悪いものであるからこの供述のみにたよることなく、裏付捜査をなすべきであつた。

その他にも同女の供述した昭和二八年六月一日の上洛病院薬室前での強姦についてその際そこに一緒にいたという柳島は取調べていないし、被疑者たる原告に事実の有無を確かめることなく起訴している。これらはいずれも検察官がその職務を怠つたものというべく、特に菊長検事は、本件について構成要件の一部をなす延藤が人事不省となつたとの同女の供述は偽りであると感じたと証言しているが、このように枢要の部分について疑いを持ちながらあえて起訴したことは、その義務に著しく違反したものである。

以上のとおり本件について検察官には、延藤の供述について当然疑問を持ち、補充捜査をなすべきであつたのにこれを怠つたまま公訴を提起した過失がある。

(四)  栗田美恵の場合、栗田は、原告が注射しようとした薬が麻酔薬のチクロパンであることを知つていたと供述しており、チクロパンは前記のとおり静脈に注射するものであつて栗田の反抗があれば注射はできなかつたはずである。そうすると栗田は原告の寝室において任意に麻酔薬の注射を受けたことになるから、検察官としては和姦を示す昭和二九年二月二三日付検察官調書とあいまつてこれを敢えて強姦と判断するには更に補充捜査をする必要があつた。また栗田も河田と同じく法廷においても誘導によらなければ供述できず、証言能力に欠陥がみられたし、チクロパンは通常五CC使用されることは前記のとおりであるにもかかわらず同人の供述による二CCで麻酔状態になつたか、一〇月三〇日盲腸の手術をしたのに本件犯行で患部に影響がなかつたか等について当然疑問の生ずるところであり、これらの諸点について検察官が職務上当然はたすべき調査義務をつくしておれば、栗田の供述の信憑性に疑問が生じその告訴は架空の事実にもとずくことが判明したはずである(チクロパンの性質等に関する調査義務については前記河田の項参照)。

さらに犯行当夜の栗田の動静、原告のアリバイ等は本人から聞くだけでなく、栗田の同室者飯村、末広、河田ら各看護婦、あるいは入院患者、原告の妻君江から調査し、さらに昭和二九年二月三日末広と栗田が原告に注射されて人事不省となり、翌朝末広から栗田の寝衣に血がついていることを指摘されたとの同女の供述について末広を調べることは、検察官に当然要求される捜査範囲内であるのに、菊長検事はこれを怠つた。

以上のとおり、栗田の供述についてその信憑性を検査するために充分な捜査をなさず警察官の調査になんら検討を加えないまま漫然本件公訴を提起した点に、検察官の過失がある。

六、つぎに菊長検事の公訴追行上の過失について述べる。

(一)  栗田美恵の昭和二九年二月二三日付検察官に対する供述調書を公判に提出しなかつたこと、刑事訴訟法第三〇〇条は証人の証言と相違する検察官調書について検察官はその取調べを請求しなければならない旨規定しており、同条は特に被告人に有利なものについて、検察官に取調請求の義務を課したものと解されている。ところが右検察官調書(乙第一四号証の二)には、公判廷での栗田の証言に現われていない事実として「原告が手枕をしてくれた」とか、「キスされたり乳房や陰部をなぶられて性的な興奮を感じた」、「足と足とがはさまつていた」あるいは「チクロパンの注射であることを知つていた」旨の供述があり、これらは和姦を示すもので公判廷での供述と相反し実質的に異なつた供述に該当するにもかかわらず、菊長検事はその提出を怠つたものである。検察官の故意又は過失による右義務違反により、第一審公判は長期化し原告の防禦に困難をきたし、原告は多大の損害を受けた。

(二)  岩原富子の告訴取下書を公判廷に提出しなかつたこと、岩原に関する起訴は告訴が訴訟要件であるが、公訴提起のあつた昭和二九年三月三日前後に岩原富子は菊長検事に対し告訴取下書を提出したが、受付印が押捺されていないためその日時が明らかでない。被告は起訴後の告訴取下げであると主張するが、このように受付日時を明確にする措置をとらなかつた以上、検察官としてはこれを刑事公判廷に提出しその告訴取下げの日が公訴提起後であることを立証する義務を負うにもかかわらず、これを怠つた過失がある。

(三)  延藤千代子の告訴取下書を公判に提出しなかつたこと、前記のとおり延藤については起訴前に告訴が取り下げられていたから、非親告罪である致傷罪が成立しなければ公訴は不適法として棄却されるはずであつた。しかし菊長検事は右告訴取下書を公判に提出しなかつたから、仮りに裁判所が原告の犯行と致傷の結果との間に因果関係を認めなかつた場合、右告訴取下げを知らないまま単純な強姦あるいは強制わいせつ罪として有罪判決をくだす危険があり、又これが提出されれば原告としては有罪を免れるために致傷の点のみ防禦すればよかつたにもかかわらず、これが明らかにされないため多大の負担が加重された。従つて右のような場合には、検察官は告訴取下げの事実を公判廷において明らかにすべきであり、菊長検事は故意又は過失によりこれを怠つたものである。

七、以上の検察官菊長一義の故意又は過失による違法な公権力の行使によつて、原告の受けた損害はつぎのとおりである。

(一)  刑事裁判のため支出した費用約二〇八万円であるが、その内訳は左のとおりである。

(1)  弁護士費用

弁護士   着手金 中間支払  高裁  謝礼金

柏原武夫  五万円 三〇万円 一〇万円

渡辺俊雄  五万円 五〇万円 一五万円 一〇万円

山村治郎吉 五万円 三〇万円 一〇万円

上西喜代次 五万円 二六万円 一〇万円

食事および車代 約一〇万円

小計 約二二一万円

(2)  他の弁護士への相談料一〇万円

(3)  文書料二〇万円

以上合計約二五〇万円から麻薬不法所持の訴因についての弁護費用と考えられるその六分の一約四二万円を控除した額

(二)  本事件による収入減 一カ月二〇万円として六年間 合計金 一、四四〇万円

(三)  精神的損害は算定不可能の額に達する。

なお前記検察官の公訴提起上の不法行為と公判遂行上の不法行為は不可分的に一体となつて公判の長期化をもたらし、公判遂行上の違法の存する四件についての弁護費用約一六六万円の損害、収入減による損害ならびに精神的損害を原告に与えたものである。仮りに右主張が理由がないとすれば、公訴遂行上の過失にもとずく損害額は前記裁判費用および得べかりし利益の喪失のそれぞれ一〇分の一にあたると主張する。

さらに刀剣不法所持の有罪判決については、原告はなんらこれを争わなかつたから訴訟費用をかけていないし、またこの有罪の確定は原告の医師としての評価を害するものではないから、右の損害とは全く無関係である。

八、よつて原告は、被告に対し、前項(一)(二)のうち金一五〇万円および精神的損害に対する慰藉料の一部として金五〇万円、合計金二〇〇万円および本件訴状送達の翌日である昭和三五年二月一〇日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

抗弁に対する答弁

一、時効の抗弁について、刑事第一審第二八回公判期日において、原告が被告主張のように陳述したことは認める。しかしこれは単に原告が本件の捜査の公正に疑念をいだいたことを示すにすぎず、このとき本件公訴提起の違法と加害者を知つたものではない。前記のとおり刑事事件においては無罪あるいは公訴棄却(免訴)の裁判が確定した際に客観的に公訴提起の違法が確定するのであるから、河田菊子に対する強姦、延藤千代子に対する強姦強制わいせつ各致傷および栗田美恵に対する強姦の各公訴提起は、昭和三二年九月五日京都地方裁判所が言渡した無罪判決の確定により、岩原富子に対する強制わいせつについては昭和三四年三月四日言渡の大阪高等裁判所の公訴棄却の判決の確定によつて客観的にそれぞれ起訴の違法が明確となり、また主観的にも原告は右判決確定によつて始めて加害行為である公訴提起が違法な公権力の行使であることを認識したのである。従つて本訴提起まで三年の時効期間は経過していない。

二、過失相殺の抗弁について、延藤千代子に対する強制わいせつ致傷については原告が自白しており、これが過失相殺の対象になることは認めるが、その余の部分は争う。

(被告の主張)

請求原因に対する答弁

一、請求原因事実第一ないし第三項中原告に対する社会的評価の点は不知、その余はすべて認める。

二、同第四項記載中検察官が高度の注意義務を負うことは争わないが、刑事裁判では、証拠調の結果起訴時と事情が変化することもあり、また訴追者と裁判所の間の証拠の評価および法律解釈の相違により起訴事実が無罪とされることもあり、無罪の判決があれば必ず公訴の提起が違法となるものではない。また検察官は犯罪の嫌疑があり、有罪判決を得る蓋然性のある場合、起訴便宜主義の範囲内で被疑者を起訴すべき職責を負うものである。そして検察官は、公訴提起に当つてなすべき捜査の範囲および方法について裁量権を与えられており、また捜査によつて得られた証拠をいかに評価するかはその自由な心証に委ねられているのであるから、検察官が右裁量および自由心証の正当な範囲内で当該公訴を提起したのであれば、仮りに裁判所が無罪あるいは公訴棄却の判決をくだしたとしても、その起訴が違法であり、かつ検察官の過失にもとずくということはできない。

本件においては、菊長検事は、原告および被害者をはじめとする参考人の供述ならびに警察における捜査の結果を総合勘案し、有罪判決を得るに足る証拠があると判断して起訴したもので、起訴の段階においては犯罪事実の存在を裏付ける十分の証拠があつたが、被害者の羞恥心名誉心のため公判廷での証言が困難であつたこと、同人らに対し原告の働きかけもあり証言の際原告の面前で心理的圧迫を受けたこと、および付随的事項について被害者らの記憶が薄れていたことなどの原因でその供述が不完全となつて、裁判所では有罪の確信に達しないとして無罪になつたにすぎない。すなわち犯罪事実の認定においては、事実の経験者である被害者および犯人の供述が重視されるのは当然であり、特に通常目撃者のない強姦、強制わいせつ等の事件において犯人が否認する場合には、被害者の供述が決定的な証拠となるものである。そして本件では被害者らは、涙を流して詳細に被害状況を供述したうえ、いずれも真面目な女性であつたと認められたから、その供述を信用したのは当然である。

またチクロパンが麻薬でないことは、警察の捜査段階においてすでに明確になつていたのであるから、麻薬を使用した犯罪との前提で捜査した事実はないし、検察官は、全般的な裏付捜査として、田村啓子、岸秀雄、島村志津らの取調べにより、原告経営の病院内における風紀がびん乱していたこと、原告や看護婦間にチクロパンの注射が濫用されていたこと、原告が夜間看護婦部屋によく出入りし、看護婦にいたずらをしていたこと等の事実を調査している。

このように菊長検事は必要十分な捜査をしたうえで、経験則に従い犯罪事実を認定し本件公訴を提起したので、検察官には何ら職務上の義務の違背はない。

三、同第五項記載の事実が検察官の過失であることは争う。

(一)  河田菊子の事件について、チクロパンについては下鴨警察署長から京都府衛生研究所あて照会がすでになされていただけでなく、菊長検事は京都地方検察庁麻薬係であつたから、麻薬と麻酔薬については十分知識を有していたし、本件の参考人の取調べの際チクロパンの性質を尋ねてこれを知つたほか、右衛生研究所に対する電話照会によつてチクロパンの性質、特徴、薬学上の作用等を調査しているのであつて、原告のこの点に関する主張は誤りである。

かつチクロパンの作用は、原則として原告主張のとおりであるが、原告は被害者の河田菊子より体格体力においてはるかに優つていたから麻酔中の河田を連行することは不可能でなく、同人の体質その他の状況からその供述のように外界状態を認識した例外的な事例も考えられるので、これを信用した検察官に過失があるとはいえない。

さらに原告は河田の供述について裏付捜査がされていないと主張するが、検察官は有罪判決を受けるに足りる証拠が収集された場合、被疑事実と無関係のまたは関係の薄いことまで調べる義務も必要もなく、本件においても原告主張の点まで調査する必要は認められない。

また警察官の調書と検察官の調書が類似しているのは被疑事実が同一であるから当然であり、菊長検事は警察の捜査結果をうのみにしたわけでなく独自の立場で捜査にあたつたものである。

起訴前原告も河田菊子の小陰唇に手を入れ中を開いてみたことを認めていたのであり、刑事第一審判決においても「河田が原告の居室に拉致されたとの点は同人の記憶に反した供述とは思われないが、夢幻的記憶を真実による記憶として供述しているのではないかと疑われる余地があり、又強姦被害の事実についてもまだ確認するに足る証拠がない。」としており、事実の存在を完全に否定したものではない。従つて検察官が本件を起訴したことには過失はない。

(二)  岩原富子に対する強制わいせつについて、司法警察官土庄一夫は、下鴨署で岩原富子に対し十分告訴の意思を確かめてその旨告訴調書を適法に作成したものであり、岩原富子は真実原告を告訴する旨の意思表示をしたものである。

検察官が同人を取調べた当時、同人はすでに一八歳であつて充分に告訴能力を有していたし、ことさら告訴の趣旨を説明しなかつたが、右のとおりすでに司法警察員に適法に告訴していたから告訴の趣旨は同人がすでに了解していたもので、検察官の取調べに対し同人は詳細に被害状況を述べ涙を流して原告に対する憎しみを訴え勤務先をかえたいと供述していたもので、検察官は同人の告訴の意思を十分確認している。右のような状況からして検察官は同人が公判廷で供述を変更するとは予想もできず、あらためて告訴の意思を調書に記載しなかつたものである。

また原告主張の岩本晴子は直接の目撃者ではなく、しかも原告の使用人であつて同人の取調べの結果から多くを期待することはできなかつたから、調査の必要は認められないし、原告がわいせつ行為をしているしばらくの間、岩原か岩本かが布団から外れた場合も考えられ、原告がいう布団の大きさは重要でない。なお本件被疑事実について検察官は原告の弁解を十分きいたが、原告は単に事実を否認するのみで特に調書をとるまでの必要はなかつたから、検察官調書を作成しなかつたのである。

本件について刑事第一審は事実および告訴の存在を認めて有罪判決をくだしており、第二審は公訴棄却の判決を言渡したが、これは起訴後五年の経過という事情から被害者の将来を考慮して告訴の存在に疑問があるとしたものとも解されるのであつて、少くとも犯行の存在自体は明らかである。

(三)  延藤千代子に対する強制わいせつ致傷および強姦致傷について

(1)  強制わいせつ致傷については、わいせつ行為をしたことは原告も認めており、致傷の事実は原告および被害者の供述から明らかであつた。

(2)  強姦致傷の犯行場所については、応接間の現場写真がありまた警察官を指揮して右応接間の広さおよびガラス破損の有無について調査している。その結果は、被害者の供述のとおりであり、多少の誇張があるとしてもその供述態度は真剣で虚構であるとは考えられなかつた。

原告が指摘する傍証の捜査はいずれも不必要であり、原告に対する検察官調書がないのは、前記岩原の場合と同じく、原告の弁解は十分きいたが単純な否認だつたので特に調書を作成しなかつたもので、菊長検事は、延藤の供述のうちに応接間での状況を誇張して表現している点があることは認めたが、その他の部分については真実を述べているものと考え、芝野医師の供述とを合せ判断して強姦致傷の事実を認定して起訴したもので、検察官には、事実の認定について偏見をもつてこれを処理したとか経験法則の適用を誤つたとかいう点は少しもないから原告の主張は理由がない。

(四)  栗田美恵(美子)に対する強姦について、

本件について刑事第一審判決は一応の事実の存在を認めたが、姦淫されることを予見していたかどうかという微妙な事実認定により無罪としたもので、起訴当時、被害者の警察官および検察官に対する供述とその他の証拠を総合し、なお判例が刑法第一七八条の抗拒不能の状況をかなり広く認めている事情を考慮して、検察官がこれを強姦と判断したのは当然である。

また盲腸手術のあとのガーゼは小さく伴創膏で留めてあるにすぎないから本犯行による影響は殆んど受けないはずであり、チクロパンは原告が注射したのであるから被害者が正確に注射された量を認識できたとは考えられないのであつて、この被害者の不正確な供述をもとにしてチクロパンの作用を検討することは無意味であるし、原告指摘の飯村、末広、秋田君江らについては犯行の直接の目撃者でもなくまた立場上原告に不利益な供述をすることは期待できないから、これらを調べる必要はない。

四、同第六項記載の事実はいずれも認めるが、これが検察官の過失である点は争う。

(一)  栗田の検察官調書の不提出について、

菊長検事が原告主張の検察官調書の証拠調を請求しなかつたことは、刑事訴訟法第三〇〇条に違反するものではない。すなわち同条は、同法第三二一条第一項第一号後段により証拠にできる場合にのみ証拠調請求の義務を課したもので、検察官は当該調書が証拠能力をもたないと判断するときは証拠として提出する義務はない。そして前記調書とその他の捜査官に対する供述調書および公判廷での供述とを比較検討すると、右調書の信憑性は極めて乏しく特信性を欠き証拠能力を持たなかつた。従つて検察官が右調書の取調べを請求しなかつたのは当然で職務上の義務違反はない。

(二)  岩原富子の告訴取下書について、

この告訴取下書は起訴後提出されたから、本件公訴提起は右取下とはかかわりなく適法であつてこれを裁判所に提出する必要はない。受付印がないのはこれが菊長検事のもとへ直接持参されたからである。

(三)  延藤千代子の告訴取下書について、

延藤関係の起訴事実はいずれも非親告罪であつたから告訴の取下は公訴の維持と関係がなく、さらに被害者延藤は法廷において被害を受けたことを否定しており、いずれも致傷の点が争点ではなかつたので公判廷に提出しなかつたのである。

五、同第七、第八項(損害額)はいずれも争う。

(抗弁)

一、消滅時効

仮りに検察官に過失があるとしても、原告が真に無実であれば公訴提起当初から当該起訴をした検察官に過失があり、自己の権利が侵害され損害を受けていることを知つていたはずであるし、本件では原告は刑事第一審第二八回公判期日(昭和三一年九月二一日)において捜査の不備を指摘し検察官の取調べが妥当でなかつたと供述しており、少くともこの時には右事実を熟知していたからその後三年の経過により本訴請求権は時効により消滅している。被告は予備的に右消滅時効を援用する。

二、過失相殺

かりにそうでないとしても、原告が岩原富子に対しわいせつ行為をしたこと、栗田美恵に威力を加えて姦淫したこと、延藤千代子に対しわいせつ行為をしたことは明らかであり、その他にもその経営する病院内の風紀の乱れを放置し、自らも夜間看護婦部屋によく出入りして看護婦にいたずらする等、本件刑事事件の惹起について原告の過失が原因となつていたから、これを損害額の算定について充分斟酌すべきである。

(証拠関係)省略

理由

一、原告の地位職業および原告が請求原因第二項記載のとおり起訴され、同第三項のとおりの判決を受けたことは、当事者間に争いがない。

二、原告は、右第二項記載(一)(二)(五)ないし(七)の事実の起訴はいずれも担当検事菊長一義の故意または過失による違法な公訴提起であると主張し、被告はこれを争うので以下において判断する。

(一)  検察官の公訴提起が国家賠償法第一条にいう公権力の行使に該当することは疑いない。刑事訴追による被告人の利益の侵害は、法に定められた手続に則つて行われる限り適法であるが、犯罪の嫌疑および訴訟要件を欠いた起訴は公権力の違法な行使であり、検察官に職務上の義務違背がある場合、国はそれから生じた損害について賠償の責に任じなければならない。

まず実体上の犯罪の嫌疑の存在について考えてみる。起訴時と判決時において証拠の量と質において差異があるのが通常であり、かつ有罪判決と起訴の各段階においてそれぞれ要求される心証の程度には差があると考えられるから、起訴された事実について無罪判決のあつた場合といえども直ちに起訴が要件を欠く違法なものであつたとはいえず、起訴時に有罪判決の可能性が存した限り、当該起訴は適法である。右にいう有罪判決の可能性とは、犯罪の嫌疑が十分で有罪の判決を期待しうる合理的な根拠のあることをいうのであつて、単に犯罪事実の存在の可能性をいうのではない。この際要求される心証の程度について実定法上の基準を求めれば、刑事訴訟法第二一〇条にいう「罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由」あるいは起訴前の勾留の要件として同条第六〇条にいう「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」がある場合より高度の犯罪の蓋然性が認められることを要するが、合理的な疑いをいれないまでの確実性は要求されないというべきであろう。法は右起訴前の第六〇条の段階から起訴まで更に身柄確保のため最長二五日間の拘束を許しているので当然その間の捜査によつてより確実な証拠が確保されることを要求していると解される一方、起訴後の証拠の収集が許されかつ有罪判決までは無罪の推定があるとされているから、判決による有罪の認定と公訴提起の際の嫌疑の存在では犯罪の確実性の認識に差が当然予定されていると考えられる。現実には日本の刑事事件の有罪率は一〇〇パーセントに近く、日本の検察の実態としては有罪の確信に達しない限り起訴しないのが通例であるが、これが法の予定したところとは解し難く、たまたま右慣習に反して有罪判決の可能性はあるが有罪の確信にまでいたらない事件を起訴した場合は実際上公平を欠き不当であるというにすぎず直ちに違法となるものではない。

そうすると検察官は起訴時の証拠(および出現が予測できる証拠)によつて有罪判決を得る可能性が存する場合にのみ起訴すべき職務上の義務を負い、この可能性のない事件について、証拠の評価経験則の適用を誤つて自由心証の範囲を逸脱し、もしくは当然なすべき捜査を怠つて事実の認定を誤り、あるいは構成要件のあてはめまたは法律解釈を誤つて公訴を提起したときは、いずれの場合にもその起訴には過失がある。ただ構成要件のあてはめおよび法律の解釈はいずれも微妙であり一義的にその正否を断定することはできないから明らかに非合理なものでない限り判決との相違によつて直ちに検察官め過失を認めることはできないが、事実認定は本来一義的に決定できるはずであるから、自由心証の範囲内で検察官の認定の正否を厳格に判断すべきでこの点の誤りは検察官の過失を推定せしめるものといわねばならない。ただしこれらの過失が検察官に認められる場合といえども、その起訴事実について有罪判決を得る可能性が客観的に存する限り当該起訴は違法とならない。

公訴棄却あるいは免訴の判決が確定した場合も同じように考えられるが、特に刑事訴訟法第三三八条第四号に規定された公訴提起手続の不備による公訴棄却の判決が確定したときには、被告人は適法な手続によらないで法益侵害を受けたことになるから当該起訴は違法であり、かつ公訴提起の手続は検察官の職務権限の範囲内であるから、反証のない限り義務の懈怠が推定される。

これらの場合過失を定める注意義務の程度は、当該検察官の個人的な基準ではなく客観的に通常の検察官に要求される基準によることはいうまでもない。従つて検察官は、送致を受けた事件について内容を検討し、訴訟要件の存在を確かめ、不備な証拠を収集し証拠を適正に評価して有罪判決を得る可能性が認められる場合にのみ公訴を提起する義務がある。

以上は公訴提起に関する検察官としての職責一般であるが、この点に関し本件につき特異なものについて考える。

まず本件の如き犯罪、すなわち強姦強制わいせつといつた犯罪は、共犯者のあることも少く犯行の直接の目撃者も物的証拠も存しない場合が多く、犯人が否認する場合被害者の供述が唯一の有力な証拠である場合が多いことは、被告主張のとおりであり、特に本件のごとく捜査機関が犯罪の申告を受けたのが犯行直後でない場合は、いわゆる罪体の有無(この場合強姦被害の存否)も被害者の供述にのみたよらざるを得ない。従つて犯罪の嫌疑の存否はもつぱら被害者の供述に依存するから、検察官としては通常の場合には当該犯罪に関係する部分のみの裏付けで足りるが、このような場合には単にそれのみにとどまらずその供述全般にわたつて裏付捜査をしてより慎重にその信用性を検討する必要がある。

次に原告は本件が麻薬犯罪であるとの見込捜査から始められたので、この捜査方針の誤りを検察官が看過したことが違法な起訴をひきおこしたと主張し、成立に争いのない乙第四号証、証人大田信義の証言によれば、当初秋田病院上洛病院をめぐる麻薬不正使用事件との想定で捜査が開始されたことは認められるが、一方成立に争いのない乙第七号証によつて検察官は本件犯行(河田、栗田)に使用された薬品は麻薬ではなく麻酔薬チクロパンであるとして送致を受けたこと、成立に争いのない乙第二七号証によると昭和二九年二月二四日には警察官が原告の妻秋田君江に対し右チクロパンについて供述を求めている事実が認められ、右の状況の下では直ちに検察官が当初の右捜査方針の過誤に影響を受けたためその判断を誤つたということはできない。

さらにまた成立に争のない甲第七、第八、第一一、第一三、第一四、第一七、第二一及び乙第二八号証の六ないし一一ならびに証人上原文二及び原告本人各尋問の結果によれば、警察病院建設をめぐつて原告と警察とが対立していたこと、上洛病院長である原告と同病院に勤務中の医師岸秀雄との間に同病院の経営に関して紛争があり、同病院の職員が院長派と岸医師派の二派に分かれ、原告の所属する医師会内部にも対立があつて、これ等原告の反対派の者から警察に対する働きかけがなされたのではないかとの疑を生ぜしめる状況があつたことが認められる。しかし右事実は警察が原告に対し空中楼閣の犯罪をつくり上げたものとして人を首肯せしめるに足らない。

そこでかくの如き、公訴提起に関する検察官の職責一般及び本件に特異なる事情を前提とし、この点に考慮を加えつつ、各個の起訴事実につき、その公訴提起の違法性の有無を考える。

(二)  まず訴外河田菊子に対する強姦の起訴について考えてみる。成立に争いのない乙第二号証および証人大田信義の証言によれば、昭和二九年二月三日、当時京都下鴨署に勤務していた巡査大田信義が原告経営の上洛病院看護婦訴外島村志津を窃盗容疑で取調べた際、同女は(1) 昭和二八年一月同病院勤務の岸医師に強姦されたし、(2) 同月一二日同病院見習看護婦延藤千代子が原告に同病院応接間で強姦され、(3) 院内で麻薬が不正に使用されている等原告に非行が多い、との供述をしたことが認められる。さらに成立に争いのない乙第一一号証の一ないし八および証人大田信義、同河田菊子の各証言によれば、この島村の供述にもとづいて右大田は原告経営の上洛病院、秋田病院に勤務していた看護婦を歴訪して右被疑事実を内偵するうち、同年一〇月から一二月まで秋田病院に見習看護婦として住み込み勤務していた訴外河田菊子を訪れ、一度警察に来て貰いたい旨を伝えておいたところ、昭和二九年二月一〇日、河田は後記栗田美恵(美子)と共に下鴨署に出頭して、警察官黒川隆蔵に対し、昭和二七年一一月一〇日頃と同月一八日頃の再度にわたり原告によりチクロパンを注射されて意識不明のうちに姦淫されたから処罰して貰いたい旨供述告訴し、検察官に対しても同様の供述をしたこと、が認められる。

そこでまず検察官が右河田菊子の供述の信用性の評価を誤つたかどうかを検討する。成立に争いのない甲第二七号証および第二八号証、乙第九号証、第一一号証の一ないし八、第二一号証の一、第二二号証、第二九号証および証人菊長一義の証言、原告本人尋問の結果を総合すると、河田の強姦被害に関する供述があいまいなこと、チクロパンの作用からいうと例外的な事態を供述していることが認められるが、一方河田は自発的に強姦被害事実を述べており、一九才くらいの女性が実際は強姦の被害を受けていないのに自分の勤務していた病院の院長を加害者として告訴することは通常考えられないこと、河田が当時純真でことさら嘘をいう人柄とはみえなかつたこと(これは原告と菊長検事が一致して供述しているところである。)、刑事第一審判決が河田の供述は記憶に反したものとも認められない旨判示していること、チクロパンの作用は被用者の体質、体調、精神状態、薬量等の影響により必ずしも一定していないこと、チクロパンの作用に関する部分以外の強姦被害の状況は思考しえないものでなかつたこと、起訴当時河田の処女膜はすでに破瓜されていたと認めえたこと、をそれぞれ認定ができ、これらの事実を総合すると検察官が起訴当時において同女の供述した事実が架空のもので、夢幻的な記憶を現実のものとして述べているに過ぎないものであると判断することは期待できず、これを真実の供述として信用したことは無理からぬところである。成立に争いのない乙第一一号証の四(同女の検察官に対する供述調書)には警察官の告訴調書の内容が殆んどそのまま引用されていることがうかがわれる。しかし前掲乙第一一号証の一ないし八、および証人大田信義、同土庄一夫、同菊長一義の各証言と前記認定の犯罪申告の状況をあわせ考えると、河田の供述が警察官の誘導または強制による架空の供述であるとは認められないし、刑事公判廷での河田の供述は明晰を欠いていたが、被告主張の如きこの種犯罪における被害者の羞恥心名誉心に基因する証言の不明瞭性等の事情も考えられるのでこれから直ちに起訴前の同女の供述の態容を推測することはできない。以上の認定に反する証人河田菊子の証言の一部は信用できない。そうすると本件の被害事実はいずれも河田が自発的に供述したものと認められるから検察官が警察調書にもとづいて取調べたことが河田の供述の信用性の評価に影響を及ぼすものとも言えない。結局右のとおり強姦被害の事実を訴える被害者の供述が一応信用できる以上、起訴に相当する犯罪の嫌疑はあつたと言わなければならない。

ただ検察官がチクロパンの作用についてどの程度の調査をしたかは明瞭でないが、証人菊長一義の証言によれば菊長検事は京都地検の麻薬係であり少くとも原告の妻秋田君江から警察官がチクロパンの効力について聴取した書面である前記乙第二七号証を判断の資料としたほか、取調べた河田菊子、栗田美恵等の参考人及び被疑者である原告本人自身から説明を受けた事実及び起訴前に京都府の薬務課にチクロパンの効果について電話照会をした事実が認められる。

しかし本件のごとく薬物の作用による昏睡中に姦淫されたとの事件にあつては、事件処理に際して検察官がその薬物の性質作用について詳細に調査検討すべきは当然であると考えられるところ、右証言によればチクロパンの即効性について知るところもなく下鴨署長から京都府衛生研究所に対する照会回答(前記乙第九号証)がまだ到来していない時期において右の程度の資料にもとずいて起訴不起訴を決定したものであつて、これはいささか軽率のそしりを免れない。ただ前記乙第二二号証(刑事第一審における上田始鑑定人尋問)にてらし、専門家の回答も断定的なものでなく本件起訴事実が経験則に反するものと決定するに足りないことが明らかであるから、検察官のチクロパンに関する知識調査の不足が河田の供述の評価を誤らせて本件起訴をひきおこしたとは認められない。また河田は原告が同女に注射した際末広晴子栗田美恵にも同時に注射したと供述しているので、この事実について調査するのが相当であつたが、この調査の結果が河田の供述を裏付けなかつたとしても直ちに河田の供述が信用性を失うものでないことは成立に争いのない甲第二号証、乙第二九号証にてらして明らかであるから、この点に関する検察官の手落ちも本件起訴を違法とするものでない。さらに原告は、検察官には原告に乱暴された結果下田看護婦が自殺したこと、原告が麻薬患者であること、秋田病院ではビタミンB1 をストレプトマイシンとして使用した等の河田の供述について裏付捜査しなかつた点については、上述のとおり本件のような犯罪にあつては、被害者の供述の信憑性はあらゆる面から検討されねばならないから直ちにかかる裏付捜査が不要と断定はできない。しかし成立に争いのない甲第一九および第二〇号証、第二五号証の三一、証人秋田君江の証言および原告本人尋問の結果によれば、下田の死については事故死か自殺か疑念をいだかせる面があり、河田自身が原告から強姦されたと信じている限りその死について悪意のある潤色をなすことは当然でこの裏付捜査の結果によつて同女の供述全体が信用できなくなつたはずとはいえないし、前掲乙第二七号証および証人河田菊子、同岩原富子の証言にられば昭和二八、二九年当時秋田病院の看護婦間ではチクロパンが麻薬と誤解されていたこと、原告にチクロパンの施用についてある程度習慣性があつたこと、更に成立に争いのない乙第二八号証の一一によれば治療上の必要からビタミンB1 をストレプトマイシンとして患者に注射した事実があつたことが認められ、河田の供述は全く根拠を欠くものではなかつたから、これらの点について裏付捜査がなされていたならば、本件は起訴されなかつたであろうと認めることはできない。

以上のとおり河田菊子の件についての起訴が違法かつ検察官の過失によるものとは認められず、原告の主張は理由がない。

(三)  つぎに訴外岩原富子に対する強制わいせつ罪の起訴について、これが違法かつ検察官の過失にもとずくものかどうかを判断する。強制わいせつ罪は親告罪であるが、刑事第一審では告訴と犯罪事実がともに認められるとして有罪の判決があり、同第二審においては告訴がないとの理由で公訴棄却の判決があつたことは、当事者間に争いがない。

まず原告は、検察官には本件について告訴の欠缺を見過して公訴を提起した過失があると主張するので、この点について考える。成立に争いのない乙第一二号証の一には右岩原富子が警察官に対し、本件強制わいせつについて原告の処罰を求める意思を表示したと記載されている。しかるに、成立に争いのない乙第一二号証の三ないし五、証人岩原富子の証言によると、同女は、刑事第一審の公判以来終始告訴をしたことはなく単に「原告が警察官の言うような悪いことをしているのであれば処罰したらよいであろう。」との趣旨の供述をしただけで、取調べに際し警察官検察官のいずれからも本件が親告罪であることおよびその告訴の意味についての説明を受けなかつたし、乙第一二号証の一、二の内容はすべて事実無根でそのような供述をした覚えはない、と述べてきていることが認められる。そして前掲乙第一二号証の一ないし五、成立に争いのない乙第三〇号証ならびに証人上原文二、同岩原富子の証言を総合すると、岩原は前記告訴調書作成については原告逮捕の当日警察署に任意出頭を求められ午後五時から一一時頃まで長時間深夜にわたり必ずしも適切とは言い難い状況で取調べをうけ、同女は当時一八才の未成年者であつたからこの状態では必ずしも平静でありえなかつたこと、また告訴後検察官が取調べた当時も同女は依然原告方にとどまり住込み勤務しておりこの事実は検察官も熟知していたことが認められる。そうすると検察官は親告罪の処理にあたつては告訴の有無を確認すべき職務上の義務を負い、右認定の状況では警察官作成の告訴調書をう呑みにすることなく、警察における告訴が任意に行なわれたものか検察官の面前においても告訴の意思をもつているかを調査確認すべきであつた。ただこの確認は、被害事実の供述が積極的具体的である等により告訴意思が客観的に明白である限り、必ずしも処罰をのぞむか否かという直接の質問の形で被害者に確かめることを要しない。そして被告は岩原の供述内容、態度から告訴の意思は明らかであつたと主張するが、前掲乙第一二号証の二には被害状況についての供述はあるが、告訴意思の存在を客観的に確認するに足る供述は認められないし、証人岩原富子の証言によると右供述は積極的自発的なものでなく検察官の問に対してうなずいてこれを肯定する程度のものであつたことが明らかであるうえ、乙第一二号証の一と二を比較すると、菊長検事の取調べはその順序程度内容についてまで警察調書をそのまま踏襲しており、前記認定事実とあわせると、告訴意思が客観的に明白な場合とはいえないから検察官は直接の質問によつて岩原の告訴の意思を確認すべきであつた。しかるに乙第一二号証の二、第二六号証の一、二および証人菊長一義の証言によれば、岩原に対し告訴の趣旨について特段の説明をしたこともなく、告訴意思について直接尋問した形跡もない。右認定に反する証人菊長一義の証言の一部は信用できない。そうすると検察官は本件起訴にあたつて職務上なすべき十全の措置をとつたとはいえないのである。

しかし一方、前掲乙第一二号証の一、二の調書に岩原が全く供述していないことが記載してあるとまで認めるに足る証拠はない。すなわち警察での取調べに際し警察官の問のとおり返答しなければ自からも共犯者になると言われたとか、検察官の取調べの際警察官が同席していたので警察のとおりしか供述できなかつたとする岩原富子の証言は、前記乙第二六号証の一、二、証人菊長一義の証言にてらし信用できない。このように検察官の取調べに際し岩原の自由な供述を妨げる事情のあつたことも認められないし、岩原の捜査官に対する供述が消極的受動的なものであることは事柄の性質上自然と解されること、それに成立に争いのない乙第二九号証をあわせ考え、岩原の捜査官の面前における供述特に告訴はその示唆にもとずくのではないかとの疑いを懐かしめるが未だ任意性について疑いを生ぜしめるに足りない。そして告訴について岩原は原告が悪いことをしているのなら処罰したら良いであろう程度のことは言つたと供述しており、一方において原告の自己に対する犯罪事実を供述しているのであるから、自然右事実について警察官に対し処罰を求める意思を表明したと解さざるを得ないのであつて、かつ告訴は自発的積極的なものである必要はなく告訴人の自由意思にもとづくものであればたりるから、本件について岩原富子の告訴がなかつたとは認めがたい。

岩原は告訴の意思について説明を受けたことはなくその何たるかを知らなかつたと供述するが、自己に対する犯罪事実を警察官に申告してその犯人の処罰を求望む意思を表明した以上、刑事処罰を求める趣旨の告訴と解して妨げないし、また当該犯罪事実が親告罪に該当することを法律上の知識として知つていたかどうかは、告訴の効果に何ら影響を与えるものではない。また当事見習看護婦が職場を変更するのが困難であつたこと、原告は逮捕勾留中で不在であつたこと、ならびに事件の性質上口外するのが困難であつたこと、原告の妻秋田君江から原告方にとどまるよう説得を受けたのではないかとの事情が本件弁論の全趣旨から認められるから、告訴後も引続き原告方に住込んで勤務していたこともこれを合理的に説明できないものではない。さらに成立に争いのない甲第二五号証の二三および第二六号証の二により検察官の取調べを受けた二、三日後には岩原は告訴の意思を失い告訴取下書を作成提出したことが認められるが、乙第二九号証によるとこの取下は秋田君江の勧告によるものと認められるので、このことから必ずしも検察官の取調べを受けた当時告訴の意思を持たなかつたことを示すとはいえない。また強姦の被害者がすでに一八才に達しているときその告訴について親権者の意図を確認する義務も認められない。

そうすると検察官が岩原に対し、告訴意思の存否を直接質問の形で確かめたとしても、その際同女が原告を告訴しない旨供述したであろうことまで認めるに足る証拠はないから、告訴の意思について確認する措置をとらなかつた検察官の過失によつて本件公訴が提起されたものとなす原告の主張は、その因果関係について立証がないことに帰し、採用できない。

つぎに前記岩原の犯罪事実についての供述を信用し本件について実体的な嫌疑を肯定したことに検察官の過失があつたかどうか考えてみる。

右岩原の供述はそれ自体としてはあり得べからざることとは認められないし、その任意性が疑いがあると言えないことは前記のとおりである。また原告が主張する岩本晴子の取調べは補充捜査としてより望ましい措置であつたが、この結果が岩原の供述を裏付けなかつたとしても、岩本が熟睡中の出来事であつたとも考えられ、直ちに本件被疑事実の存在を否定するに足るものではない。また布団の大きさは、前掲乙第二九号証によつて認められるとおり、同衾していた岩本晴子と岩原富子の身体の位置態様によつては原告がその中間に入り込む余地はあつたとの判断が可能であつたから、これらの点を確かめなかつたことが証拠の評価を誤らせ本訴提起を違法ならしめたとはいえない。

また原告は検察官が本件について原告の弁解を聞いたことがないと主張するが、証人菊長一義の証言および原告本人尋問の結果によれば一応事実の有無を尋ねていることが明らかで、右から認められる程度の否認であるとすれば必ずしも調書を作成する必要はなく、また調書を作成しなかつたことと本件起訴を違法とすることとの間には何らの関係もない。従つて本件について検察官が強制わいせつの嫌疑の存在を認めたことについて違法があるとは言えない。

(四)  延藤千代子に対する強制わいせつ致傷の起訴が検察官の過失による不法行為であつたか否かを判断する。原告は検察官が致傷の点について確実な証拠のないまま本件を起訴したと主張するが、乙第一三号証の一、二、四、五および第二八号証の三によれば、被害者の延藤千代子は起訴事実に該当する事実を供述しており、原告も検察官に対し、昭和二八年一月中旬延藤の睡眠中汚れた手で同女の陰部に触れたことを自白していた(この点について原告はその本人尋問において外科医の手が汚れていることはありえないと供述しているが、患者に接する時以外も手が汚れていることがないとはいえない。)ことが認められ、さらに島村志津(成立に争いのない乙第一五号証の一、二)、岸秀雄(同第一九号証の一、二)の各供述によつて同月一七日延藤の陰部が麻爛炎症、粘膜剥離を起していたことおよび同女が右島村に原告にいたずらされて炎症を生じたと訴えたことが認められる。以上各証拠を総合判断すると、それぞれの証拠が補強しあい、わいせつ行為と炎症の日時が近接していることとあいまつて両者の間に因果関係を推認できる。そうするとこれら起訴の際存在した証拠によつて十分強制わいせつ致傷を認めることができこれに疑いをいだかしめる証拠は当時なにもなかつたから、検察官が本件起訴事実が存在すると判断したことに誤りはない。これに加えて原告主張の点の調査をすることは、検察官に職務上の義務として要求される補充捜査の範囲内とは認められない。従つて本件に関する原告の主張は理由がない。

(五)  延藤千代子に対する強姦致傷の起訴について検察官の職務上の義務違反の有無およびその違法性を考える。本件について起訴当時に存在した証拠は、警察官黒川隆蔵作成の捜査報告書(成立に争いのない乙第六号証の一、第八号証)、上洛病院看護婦島村志津(同第一五号証の一)同柳島明子(同第一六号証の一ないし三)の警察官調書、被害者延藤千代子の供述調書(同第一三号証の一ないし三、五)にすぎず、本件起訴事実はもつぱら右延藤の供述にもとずいて構成されていたが、その供述の要旨は、「昭和二八年四月二八日午後一一時二四分頃上洛病院応接間において原告に追いかけられたが、テーブルのまわりを一〇回ほどまわつて逃げるうち疲労のため倒れ翌朝まで人事不省の間に姦淫され、翌朝陰部から血が出ていた。この間応接間の南側腰高窓から逃げようとしてガラスを破つたが窓枠が邪魔で逃げられず、手や目の下に負傷した」というのである。ところが成立に争いのない甲第一号証によつて認められるとおり、右応接室は一二・七メートル×三・五五メートルの広さに丸テーブル、机、肘掛いす、火鉢、本箱等が配置されていたから延藤が疲労のため昏倒するまで逃げまわれる広さとは考えられず、また証人神崎久二郎の証言によればガラス破損の事実も認められない。従つて右程度の証拠によつてはとうてい有罪判決を期待することはできない。

すなわち前記延藤の供述は経験則上きわめて稀有の状況の供述であるから、検察官は起訴にあたりこれの裏付捜査を充分行つてその信用性を検討しそれが真実であることを確認すべき注意義務を負つていた。しかるに前掲乙第八号証ならびに証人菊長一義、同黒川隆蔵、同神崎久二郎の各証言によれば、訴外黒川隆蔵が検察官の指示により上洛病院応接間の広さおよびガラス破損の有無を調査した事実は認められるが、この捜査報告書には単に応接間が延藤の供述に一致するとの作成者の判断およびガラス破損の点は不明という記載があるだけで、右判断の基礎となつた具体的な事実は記載されていない。従つて検察官としてはこの警察官の判断に検討を加えないでそのまま従うような態度をとることなく、より正確な事実を知りうる手段を講じて犯行当時の室の状態を認識し、またガラス破損についても同病院の用度管理にあたつていた神崎久二郎を取調べる等の措置をとるべきであつたのにこれを怠つたものである。またかりに成立に争いのない乙第三一号証で菊長検事が述べているとおり現場写真によつて判断資料に欠けるところがなかつたとすれば、前記の応接間の大きさで延藤の供述する状態を現出しうると判断したことは経験則に違反するものであり、そのほか当時延藤が手あるいは目の下に負傷していたかも当然裏付捜査をなすべき事項であつたと認められるのにこれを調べていない。特に本件は起訴前に告訴が取り下げられ(成立に争いのない甲第二五号証の二四)たのであるから被害者の供述の変化が予想され、従つてその供述の信用性については通常の場合に比し一層慎重に調査すべきであつた。すなわち延藤が前記強制わいせつ事件に関して原告の自白と一致する供述をしていたとしても本件に関する供述部分まで当然にこれを信用すべきではなく、右延藤の性格、警察調書作成の事情等を調べれば、本件の同女の供述は最初の警察官に対する供述調書作成にあたつての警察官の執拗な取調べ態度とこれに仰合した同女の虚言癖から作り上げられたのではないかとの疑いが生じたはずである。そして成立に争いのない甲第一〇号証、証人上野秀子の証言および原告本人尋問の結果によると延藤には嘘ほらという習癖があつたことが認められ証人菊長一義の証言によると検察官自身も当時同女の供述に誇張偽りが含まれていたことを知つていたのであるから、起訴事実に符合する被害者の供述というただ一応の形式的証拠が整つていたからといつて自から信憑性に疑念を懷きながら漫然本件を起訴し有罪判決を期待したものにほかならない。

さらに本件について原告に対して十分な弁解を求めた形跡がないが、かりにこの弁解が単純な否認であり原告から具体的な現場不在証明の事実の指摘がなかつたとしても、同人は原則として秋田病院に起居し上洛病院に宿泊することは稀だつたのであるから、同病院備付けの日誌、診療簿その他につき犯行当夜原告が上洛病院に宿泊したか否かを調査する注意義務を負い、成立に争いのない甲第一四号証、第一八号証によれば右調査の結果逆に上洛病院に宿泊していなかつたことが明らかにされうる余地があつたと認められる。

その他に原告が指摘する補充捜査はいずれも必要とは認められないが、右認定の事情によれば検察官は本件事実について当然なすべき捜査を怠りさらに経験法則適用上の過誤によつて有罪判決を得る可能性がなかつたにもかかわらず、これを起訴したことが明らかである。

(六)  栗田美恵に対する強姦の起訴について、その違法性および検察官の過失の有無を検討する。

成立に争いのない乙第一四号証の一ないし六ならびに証人大田信義、同黒川隆蔵、同大林尚の各証言によれば、栗田美恵が昭和二九年二月一四日前記河田菊子と共に自発的に下鴨署に出頭し警察官に対して本件強姦被害について原告を告訴したこと、同月二三日同女の警察官(二通)および検察官に対する各供述調書が作成され、同年三月三日検察官に対する供述調書二通が作成されたこと、同女が当時一八才であつたことが認められる。これらの栗田の供述調書によると、同女は昭和二八年一〇月二六日頃から右河田菊子の紹介で秋田病院に見習看護婦として勤務するようになつたが、同月末虫垂炎の手術をした後勤務を休んでいた同年一一月四日の午後一〇時半頃、便所へ行つた際原告の寝室へ連れこまれてチクロパンを注射されて眠りこみ翌朝目が覚めたとき姦淫された感じがしたと一貫して述べているが、供述の細部についてはあいまいな点や矛盾があつたことが認められる。

この供述の信用性について考えてみるに、前記河田の場合と同じくわずか一八才の少女が事実無根の強姦で自分の勤務している病院の院長を告訴することは通常ありえないし、栗田の供述するチクロパンの注射量が正確であることは必ずしも期待できずまた前掲乙第二七号証によれば手術に使用した残りの一、二ccでも効果を生ずる場合もあり(特に栗田の場合秋田病院に勤務して日が浅くチクロパンを使用したことがなくその効力に鋭敏であつたとも考えられる。)、またチクロパンの作用の調査によつて期待される結果は前記河田の項で判示したとおであつてことに鑑み、チクロパンに関する栗田の供述は全く信用できず従つてその全供述について信用性を疑うべきだつたとする原告の主張は根拠を欠く。かつ前掲各証拠によると栗田は右のとおり自発的に警察官に強姦被害事実を申告して秋田病院を退職したのであつて、同女の供述は警察官の強制誘導にもとづいて捏造されたものとも認められないし、その供述の矛盾やあいまいな点は成立に争いのない甲第二三号証の一五、乙第二九号証によつて認められる同女が右供述当時チクロパン中毒にかかつて記憶が混乱していたことが原因と考えられるが、右供述は基本においては前記認定のとおり一貫していたからこれをもつて直ちに栗田の供述全体が信用できなかつたものといえない。従つて結局検察官が右栗田の供述を信用したことについては違法はない。

原告は本件を和姦と認めるべきであると主張し、昭和二八年二月二三日付検察官に対する供述調書(乙第一四号証の四)には和姦をうかがわせる供述もあり事件後もひきつづき右告訴まで同病院に勤務していたことなど同女の意思に反した姦淫を否定する事情もあるが、一方右調書と同日作成された警察官調書(前記乙第一四号証の二および三)の記載内容を比較し、また被害者がわずか一八才で住み込んでから数日後の出来事であり、また相手は二倍以上の年令ですでに妻子のある使用者であるから右供述の姦淫事実の存在を認めるに限りこれが両者の合意にもとずくとたやすく判断することはできない。しかも成立に争いのない甲第二三号証の二四、乙第一四号証の一ないし一〇によると栗田は知能程度もあまり高いとはいえず、その年令あるいは被用者という身分から生じた羞恥心圧迫感により直接的な姦淫行為でなく注射だつたので反抗しなかつたものと考えられ、姦淫されることを予見しないでチクロパンの注射を受けたとの供述もあるうえ、当時見習看護婦の地位は不安定で生活上直ちに勤務を止めることのできなかつた事情もうかがわれる。これらの事実と刑法第一七七条、第一七八条の解釈上右状況の姦淫を和姦と断ずることはできないことをあわせると、検察官が右事実を強姦としたことは、証拠の評価経験則の適用を誤つて自由心証の範囲を逸脱したものとはいえない。

以上のとおり起訴時の証拠により一応犯罪の嫌疑は肯定でき有罪判決を得る可能性はあつたから、問題は必要十分な補充捜査がなされていれば有罪判決の可能性に影響を及ぼす消極的な証拠が出現したかどうかである。原告は虫垂炎の手術との関連性を調査していないと指摘するが、当時同所が便所へ一人で行ける程度に回復していたことは供述自体から明らかであるから、性交が患部に重大な悪影響をおよぼしとうてい不可能であつたとまで判断することはできないしさらにこの点について補充捜査する注意義務もみとめられない。なお当夜の栗田の動静あるいは原告のアリバイ等について調査することは当然の義務であるが、一一月四日についてはアリバイのはつきりしなかつたことが成立に争いのない乙第二八号証の一ないし五により明らかで、かつ栗田の同室者については公判廷でも右栗田の行動について確実な供述をしていないから、いずれもこの点の調査の欠缺により本件起訴が違法となるものではないし、時間と労力に制約される起訴前の捜査にあつては原告の指摘する栗田の供述中の昭和二九年二月三日の事件についてまで裏付捜査する職務上の義務は認められない。

そうすると本件についても原告の主張は採用できない。

三、つぎに原告の主張する検察官の公判遂行上の不法行為の有無を判断する。

(一)  栗田美恵の昭和二九年二月二三日付検察官に対する供述調書を刑事第一審の公判廷に提出しなかつたことについて、まず原告の主張するように本件で検察官が右調書の提出義務を負うていたかどうかを考えるに、成立に争いのない乙第一四号証の四と同七ないし一〇を比較するとこの調書の記載内容が栗田の公判廷における供述と実質的に異なつていることおよび刑事訴訟法第三〇〇条は同法第三二一条第一項第二号後段(検察官の面前における供述を録取した書面)によつて証拠にできる書面について取調請求の義務を検察官に課しており、同条は被告人に有利なものを対象とすると解されていることは、原告主張のとおりである。しかし同法第三二一条第一項第二号後段によつて検察官調書が証拠能力を取得するためには、公判廷の供述と供述調書の内容が相反するか実質的に異るほか前の供述が特に信用すべき情況でされたことすなわち特信性が要求され、検察官が前の供述が特信性を欠くと判断する以上はその取調を請求する義務は無いと解される。もつとも前に述べた刑訴三〇〇条の立法趣旨からしてこれに反する法解釈も不可能ではないが、同法三二一条一項二号書面としての要件をもつかどうかの判断は一次的に検察官に委ねられ、これを有しないと判断する場合には取調請求の義務を負わない(裁判所がこれについて釈明を求め呈示提出を命ずることは格別)とするのが通説であり、本件で検察官がこの解釈に従つたことは違法ではない。

つぎに右特信性の判断が誤つていたか否かであるが、右調書作成と同日録取された警察官に対する供述調書(成立に争いのない乙第一四号証の二および三)では起訴事実を裏付ける供述をしていること、証人菊長一義の供述による右調書作成にあたつて検察官が誘導尋問をしている事実、前記認定のとおり本件事実に関する全証拠から必ずしも和姦とは認められないこと、前認定のように栗田が右供述当時中毒症状のため記憶が混乱し誘導されやすい状態にあつたこと等をあわせ考慮すると、右調書について特信性を認めなかつたことについて検察官に判断の誤りはない。

従つて検察官は刑事第一審で右調書を提出する義務を負担していなかつたから、この義務の存在を前提とする原告の主張は理由がない。

(二)  岩原富子の告訴取下書を刑事公判廷に提出しなかつたことが検察官の注意義務に違反するかを考える。成立に争いのない甲第二五号証の二三、、乙第一二号証の三ないし五、第二六号証の一および二ならびに証人岩原富子、同菊長一義の各証言を総合すると、右告訴取下書が検察官のもとに持参されたのは、岩原に対する強制わいせつの事実が起訴された昭和二九年三月三日以後であることが認められる。検察官が起訴前に告訴取下があつたとき親告罪について公訴を提起してはならない義務を負うのは当然であるが、起訴後の告訴取下は公訴維持を何ら違法にするものでないから、検察官は告訴取下書を証拠として提出する義務を負うものでないし、右取下書に受付印が押捺されなかつたことが右の義務を生ぜしめるものでもない。

(三)  最後に延藤千代子の告訴取下書の不提出が検察官の違法有責な行為であるかを考える。成立に争いのない甲第二五号証によれば、右告訴取下が延藤関係の各公訴が提起される以前に行なわれたことが認められ、かつ強姦致傷の起訴には告訴を必要としないが、この訴因で起訴されたが致傷の結果を認めえない場合には訴訟条件が備つている限り訴因変更の手続を要せず強姦の有罪言渡ができることは判例通説が認めるところである。本件については前掲乙第一三号証の一および二に延藤の告訴の意思表示が記載されており、弁論の全趣旨から右証拠が刑事公判廷に提出されたことがうかがわれるから、一見裁判所が検察官から前記告訴取下の事実を知らされなかつた場合、右調書によつて告訴があるものとして強姦で有罪判決を言渡す可能性があるように考えられる。しかし右告訴(昭和二九年二月二三日)は被害者が犯人を知つた日(本件では犯行当日昭和二八年一月一二日および四月二八日)から六カ月以上経過してからなされているから、刑事訴訟法第二三五条第一項により右告訴が親告罪の処罰条件としての告訴となりえないことは明らかであつた。従つて原告は刑事裁判ではこの告訴取下書の提出の有無にかかわらず致傷の点さえ反駁すれば公訴棄却の判決を得られたはずで、右不提出は何ら原告の権利に影響を与えないし、検察官はこのような場合告訴取下書を証拠として提出する義務はない。

四、被告の抗弁について判断する。

(一)  消滅時効の抗弁について、

国家賠償法にもとづく損害賠償の請求については同法第四条、民法第七二四条によつて三年の消滅時効が定められているが、その時効期間の起算点である「損害を知る」時期は、単に損害の発生だけでなく加害行為が不法行為であることをも知つた時期というべきである。そうすると国家賠償の対象として検察官の違法有責な公訴提起およびこれによる損害発生を主張するに足る認識をもつのは、刑事裁判で有罪以外の裁判すなわち無罪、免訴、公訴棄却(特定の理由によるもの除く)等が確定した時と考えられるから、これらの刑事裁判が確定したときから時効が進行するといわねばならない。しかして当事者双方に争いのない刑事第一審第二八回公判期日での原告本人の供述は、右の意味で当時「損害を知つていた」ことを表わすとはいえない。そして本件記録によれば第一審判決の確定した昭和三二年九月一九日および第二審判決の確定した昭和三四年三月一八日からそれぞれ三年が経過しない昭和三五年二月二日本訴が提起されたものである。従つてこの点に関する被告の主張は理由がない。

(二)  過失相殺の抗弁について

前記認定のとおり検察官の注意義務違反がある違法な起訴と認められるのは延藤に対する強姦致傷だけであるが、この起訴による損害額の算定について斟酌すべき原告の過失が存するかどうかを考える。成立に争いのない甲第一三号証、乙第一一号証の六ないし八、第一五号証の一ないし三、第一六号証の一ないし四、第一八号証の一ならびに証人上野秀子、同川上弘子の各証言および原告本人尋問の結果を総合すると、本件起訴事実の当時原告が経営する前記各病院では風紀が紊乱しており、その原因の一端は原告と看護婦相互間で麻酔薬チクロパンが濫用されていたことにあつたし、原告が他人の誤解を招くような服装で夜間看警婦部屋へ出入りしていたこと、現在でも麻薬取締法違反(形式犯たる無届所持)の方が強姦あるいは強制わいせつより重大な犯罪であるという倫理感を有していること等が認められ、また原告は延藤に対する強制わいせつ行為を自白していることは当事者間に争いなく、これらが検察官の本件起訴事実認定の資料の一部となつたことは明らかである。

これらの事実は原告の責にきすべき事由として過失相殺の対象になるが、現行刑法によつて処罰の対象となるのは行為であつて人格ではないこと、本件についての検察官の注意義務違反が特に重大であることを考え合せると、検察官の過失九に対し原告の過失一の比率とするのが相当である。

五、最後にすすんで前記延藤千代子に対する強姦致傷の罪で起訴されたことによる原告の損害額を算定する。

まず原告は物的損害のうち刑事裁判費用合計金二五〇万円を主張するが、証人上原文二の証言および弁論の全趣旨から、原告は刑事裁判第一、二審を通じて訴訟費用総額二四〇万円(原告の主張のうち他の弁護士に対する相談料一〇万円は立証がないし相当とも認められない。)の支出を余儀なくされたことおよびこの額は不相当でないことが認められる。ところで右のうち延藤に対する強姦致傷の起訴によつて必要となつた部分は明確に区別できないが、成立に争いのない甲第二一、第二二号証、乙第二九、第三〇号証、原告本人尋問の結果および弁論の全趣旨からうかがうことのできる事件の難易、犯罪の軽重、取調べを要した証拠の量等からみると、第二審費用は金二〇万円、残余の金二二〇万円は第一審訴訟費用および弁護士謝礼金に充てられたもので、その第一審訴訟費用および弁護士謝礼金の各事件についての割合はほぼ次表のとおりと認められる。

河田菊子に対する強姦 六

栗田美恵に対する強姦 六

延藤千代子に対する強制わいせつ致傷 六

同女に対する強姦致傷 五

岩原富子に対する強制わいせつ 三、五

麻薬不法所持 三、五

個々の犯罪事実に関係なく総体的情状に関して要したもの 三

そうすると右延藤に対する強姦致傷の起訴によつて要した費用は金三三三、三三三円となるが、前記原告の過失を考慮してその一〇分の一を控除すると、結局刑事裁判費用の填補賠償額は金三〇万円となる。

つぎに原告は収入減による得べかりし利益の喪失を主張するが、原告が医師として診療している秋田病院、上洛病院がいずれも医療法人であることは当事者間に争いがなく、原告個人の収入が減少したことおよびその額は本件全立証をもつてしても認定することができない。

さらに原告主張の精神的損害については、当事者間に争いのない原告の職業地位身分と右事件起訴について原告と被告の過失の程度、右延藤についての事件が本件刑事事件全体において占める重要さの程度すなわち本件七件の起訴のうち六件(右強姦致傷と同程度の罪質のものが多い)まではその起訴は違法といえず結局において刑事訴追は不可避であつたこと(起訴相当事件が一件もないのに起訴された場合と数件の起訴のうち起訴不相当のものが一件混じていた場合とでは受ける精神的損害は非常に異なる。)を総合し、慰藉料は金五万円を相当と認める。

六、結論

そうすると被告は原告に対し、右損害賠償として合計金三五万円とこれに対する右不法起訴およびこれによる損害発生の後である昭和三五年二月一〇日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、この限度で原告の請求は理由があるからこれを認容し、その余は理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 菅野啓蔵 三好徳郎 稲葉威雄)

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